モーニングページ 10日目

今日は祝日なので遅くまで寝ていた。…と言っても育休中の今は毎日が祝日みたいなもんだけど。現在10:41。娘に朝ご飯を食べさせてからPCを立ち上げた。昨日娘の髪を結び、ワンピースを着せ、靴を履かせて家の前に出てみた。娘は1月から歩き始めたが、まだお外を歩いたことがない。初めて外で靴を履いて立ってみた娘。怯えた様子で歩いてくれなかった。ぼちぼち行こう。髪を結んでワンピースを着て靴を履いて立っている娘の姿は、もう赤ちゃんではなく立派な幼児だった。大人になったなぁと感慨深い。子育ては日々「成長嬉しい」と「成長寂しい」のはざまで心が激しく揺れ動いている。子供を産んで「幸せ」と感じるレベルが格段に上がった。「嬉しい」も、子供を産む前に感じていた「嬉しい」よりもはるかに純度と密度が高い「嬉しい」を知ったし、その反対に「不安」も今まで知っていた「不安」よりさらにもっとはるかに不安な「不安」を知った。夜中に目が覚めると、私のベッドに上がってくる娘。抱きかかえて添い寝すると、満足&安心した様子ですぐにすとんと眠りに落ちる娘。娘にとっては私が世界のほぼすべてなんだと思うと、自己肯定感が爆上げされる。こんなにも私のことを必要としてくれる存在はいない。いつまで私の後をついてきて、私の顔が見えると嬉しそうに顔をくしゃっとさせて笑い、私の姿が見えないと不安で泣き叫ぶ娘でいてくれるのだろうか。すぐに自我が芽生えて、思春期には邪険にされるんだろうな。自分もそうだったから。あー切ない。こんなに愛くるしい娘に「くそばばあ」とか「お母さんなんかに分かるわけない」とか吐き捨てるように言われる日がいつかやってくるんだろうな。想像しただけで切ないわ。

昨日は自分の凡ミスが発覚したり、お友達の家の悲しいニュースを耳にしたりで、ちょっと沈んだ一日だった。私自身に降りかかったわけではない不幸も、共感力が無駄に高すぎるのかショックを受けて落ち込んでしまう。私が落ち込んだところでどうにもならないし、当事者の気持ちを考えると私が勝手に落ち込むなんて本当に失礼で不謹慎な話だ。それでも沈む気持ちをどうすることもできなかった。数年前までは自分のことを不幸をたくさん知っている人間だと本気で思っていた。今も少しそう思っているけど、世の中にはいろんなタイプの不幸があって、自分が知っている(自分の身に降りかかった)のはそのうちのほんの数種類でしかないということを知った。私も人に言えない不幸な経験があるけど、世の中には私が知らない不幸の方が多いのだ。周囲に私が知らない種類の不幸が落ちて来た話を聞いて、何というか心がずーーんとなってしまった。

最後は自分を肯定して終わろう。昔から感受性が豊かで、繊細で、共感力が高いなと自分で分析している。いわゆるHSPにもおそらく当てはまっている。社会で働くにあたって、私は自分のこの性質のせいでとても苦労している。日常生活においては特段不便はないけど、働くにあたってはこの性質はとても厄介だ。それでも、周りの人の気持ちに寄り添えるのだと解釈したい。私は人の気持ちに(ちょっと過度に)寄り添うことができる優しい心の持ち主なのだ。ここ数年はこんな自分が嫌だった。心優しい私に、私はもっと優しくしてあげよう。

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